



オリジナル計算尺
『BANTO』さん!?
ホシザキ初の記念すべきオリジナル製品が1947年に誕生。その名も『BANTO』という計算尺。日本では1980年頃に電卓が登場するまで、理工学系分野を中心に計算尺は大いに利用されました。ホシザキでは暗中模索の創業時に、自社製品第1号として製作。創業者(坂本薫俊)と開発メンバー(大東)の2人の名前から『BANTO』とネーミング。簡単な計算機で、肉屋さんや魚屋さんなどの小売店に売れると予測しましたが、サッパリ売れませんでした。
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最新鋭の設備導入!
ミシン部品製造で急成長
1947年2月5日、星崎電機が創業。当初は、戦後まもなく日本ミシン(現・ブラザー工業)と出会い共に創業の準備をしていたこともあり、ミシンの部品製造を中心に行っていました。当時、日本に2台しかなかった700トンのフリクションプレス(金属加工の特殊機械)を導入し、最新鋭の設備を活かして1951年には1200万円、翌年には3000万円の売上を上げ黒字に転換。フリクションプレスは、創業時代を支えた一番の功労者となりました。
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自社開発!
車両用クラクションはどこへ?
ミシンの部品製造は続けていましたが、「一日も早く自社製品で勝負したい」という思いで、1952年、車両用クラクションを製造販売。ホシザキが作った最初の電機製品となりました。当時はオートバイ全盛時代。ホシザキでは、社長の号令一下、車両用クラクションの製造に取り組みます。しかし販売が伸び悩み、オート三輪用で数十個程度、オートバイ用で数百個程度という販売結果に終わり、ヒットにはつながりませんでした。
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▲フリクションプレス
理想の土地に、“星崎城”を築城!
1955年秋、社長が米国・欧州視察に参加。ドイツの田舎町で“自然に抱かれた丘の上に建つ工場”という魅力的な風景に出会います。帰国後、理想の土地に工場を建設しようと、縁起の良い辰巳の方角に丘陵地を探し求め、ついに豊明の地に見つけます。そして豊明工場(現:本社工場)建設と同時に広大なグラウンドを整備。その一角に、桶狭間の古戦場の地ということで“星崎城”を築城(1957年)。フリクションプレスの倉庫として活躍しますが、お城が出現したときは地元の皆さんはビックリ!当然ですね。
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国産初のジュース自動販売機を開発!
米国視察の折、社長が現地で冷水機を発見。これだ!とひらめき、帰国後に冷水機第1号を製造。それを“オリエンタル中村”(現:三越)の社長に提案すると、「2週間後の名古屋まつりまでに、10円玉を入れてジュースが出てくるようにできないか」と相談されました。そこで社員一丸となり開発し、1957年10月の名古屋まつりでジュース自動販売機がデビュー。大人気を博しました。しかし自動とはいえ、お客様は操作方法がわからず、社員が張り付いてジュースを出したとか。
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現会長渡米、これからは水と紙、
そして「氷」の時代だ!
1960年、現会長(坂本精志)が米国マイアミで開かれた自販機展示会の視察へ向かいます。展示会への途中、会長はシカゴの街で一人の米国人と出会いました。その人が偶然にもフレークアイスの発明者の一人で、「これからは水と紙と氷が伸びるだろう」「その中でも氷を自動的に作る機械は素晴らしいもの。アメリカでも伸びているから、日本も豊かになれば必ず売れる」とアドバイス。この出来事が、製氷機誕生のきっかけとなりました。
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オレンジジュースの噴水にビックリ!
1958年に400台でスタートしたジュース自動販売機は、翌年には800台、1962年には3,200台の大ヒット商品になりました。そして1962年には『街のオアシス』という名前の噴水式ジュース自動販売機が大人気に!機械の上にガラスのボトルがあり、その中でオレンジジュースが噴水のように上がっている様子が評判に。日本中のデパートの屋上や街角に置かれ、子どもはもちろん大人も喉を潤しました。雑誌、新聞にも取り上げられ、映画にも登場するほどでした。
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日本で初めての、
角氷をつくる機械
製氷機の開発は失敗を繰り返しながらも、地道に研究を続け、開発から4年をかけて、日本で初めて全自動製氷機が完成。1965年、販売を始めました。しかし当時は“製氷機”という言葉がほとんど知られておらず、「何で氷をつくるのに機械がいるんだ」と相手にされなかったといいます。創業者(坂本薫俊)の座右の銘は、「変化して失敗したらまた変化すればいい。けれど変化しないところに、進歩はない」。社員が一丸となって改良を続け、会社の主力商品へと成長しました。
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愛嬌いっぱい!ペンギンマークの誕生
ホシザキのキャラクターとして、おなじみのペンギンマークが1966年に誕生。当初はマークのモチーフに、氷の世界をイメージした動物ということでシロクマとペンギンが候補に。そこで、愛嬌があり親しみやすいということで、ペンギンに決定!草案者である創業者(坂本薫俊)は、「お客様の信頼を得ればペンギンマークに価値が出てくる。その期待を裏切らないことが大切」と語っていました。今やホシザキのペンギンマークは、日本中いや世界中に知られるようになりました。
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大阪万博で、
ホシザキの製氷機が
大活躍!
全自動製氷機のメンテナンスをするサービス会社として、1967年、東京に日本冷機株式会社を設立。後に販売も行うことになり、直販体制のきっかけになりました。さらに全国を4つのブロックに分けホシザキならではの販売網を確立。そして、1970年の大阪万博では大量受注を獲得。「ホシザキはサービスがいい」という声に後押しされ、販売台数は外食産業の発展とも相まって急上昇しました。
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冷蔵庫+電子レンジ+自販機=「?」
1960年代から70年代にかけて、ホシザキは様々な自動販売機を開発しています。中でも冷蔵技術と電子レンジを組合せた自動販売機が国産初の「ハンバーガー自販機」。マクドナルドのハンバーガーと時を同じくして登場したハンバーガー自販機は、アメリカンスタイルに憧れる若者の間で大人気に。これらの自販機は、ホシザキが食環境にかかわる総合厨房機器メーカーへ飛躍する足がかりとなりました。
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待たれていた
大型冷蔵庫の登場!
1960年代末から全国で回転寿司やファーストフード店の出店が伸び、市場規模が急激に拡大しました。外食産業の成長にともない、1972年に、お客様からの要望の多かった業務用冷蔵庫の販売をついに開始。オリジナリティーを追求していくものづくりから、他者との差別化を図りながらバリエーションを広げました。一定の角度で自動的に扉が閉まる「扉の閉め忘れ防止機能」や、掃除がしやすい「クリアコート仕上げ」の採用など、ホシザキの発想と技術が光りました。
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時代に先駆け開発、
早すぎた食器洗浄機
1973年には、業務用食器洗浄機を開発・販売。しかし、時代の先を行き過ぎていたためか、思うように浸透せず、生産が一旦中止に。その後、時代の波がホシザキに追いつき、1981年に業務用食器洗浄機の生産を再開。このころは人件費が高くなり始めたころで、人手がかからない食器洗浄機は注目を集めました。以来、年々シェアを伸ばしています。堅実な伸びが続く業務用冷蔵庫と業務用食器洗浄機は、ホシザキのメイン商品として育ちました。
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夢に見た、
あこがれのアメリカに進出
1981年、製氷機の先進国であるアメリカのロサンゼルスに現地法人HOSHIZAKI AMERICA,INC.を設立。創業者(坂本薫俊)の“いつかはアメリカへ”という思いを実現しました。1986年には工場を開設し、全自動製氷機の生産を開始。そして、生産だけでなくアフターサービスの充実を目標に、言葉や文化の違い、そして安全性の考え方の違いなどをクリアし、品質の良さで販売台数を伸ばしました。
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全国都市緑化なごやフェアで、
会場のオアシスに!
ホシザキは、1988年秋に名古屋市で開かれた「第6回全国都市緑化なごやフェア」に参加。名城公園に「星崎オアシス館」を出展し、来場者と交流を深めました。最新技術を使った氷のさまざまなデモンストレーションで、文字どおり会場のオアシスとなって、来場者から大きな注目を集めました。
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世界デザイン博覧会に参加、
氷のマジックを披露!
1989年に名古屋市内の3会場で開かれた「世界デザイン博覧会」。ホシザキは白鳥会場で、「ペンギンランド」という名前で出展しました。涼しげな音とともに流れる氷の河“流氷くん”をはじめ、三日月形の氷が飛び出す“噴氷くん”、全長30mのパイプを通ってボールアイスが滑り落ちる“滑氷くん”などが大人気に。タネ明かしをすると、氷山の下に製氷機とエアポンプを設置。噴き出る氷はアイスコーヒー用で、夜には3色のライトに照らされ青や赤に輝きました。
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お客様にいっそう密着、
全国のホシザキ
ホシザキの販売網は、1969年に「4販社体制」(日本冷機、星崎サービス、阪神冷機、星崎冷機)からスタート。販社の成長とともに、1974年から各エリアで次々に分離分割が進み、現在は15販社体制に。日本冷機の仙台営業所と札幌営業所が東北星崎として分割されたのが最初で、その後、東北、北海道、北関東、関東、湘南、東京、北信越、東海、中国、四国、阪神、京阪、北九州、南九州、沖縄と1988年には15のエリアで分社化。各エリアでお客様と密接な関係を築いています。
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オランダに拠点、
ヨーロッパ進出を果たす!
1985年以降、多くの日本企業は国内事業の販売拠点を需要の高い諸外国に次々に設立。ホシザキも1981年の米国に次いで、1992年、オランダのアムステルダムに現地法人Hoshizaki Europe B.V.を設立しました。これにより、ヨーロッパ全土への全自動製氷機の販売拠点が確立。2年後には、イギリスに現地法人を設立し生産拠点もできました。ヨーロッパでの営業会議では、議論が白熱すると英語、フランス語、ドイツ語、オランダ語などが飛び出し、インターナショナル度満点に!
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シンガポールに、
東南アジア進出の拠点!
1996年に、シンガポールに駐在員事務所を開設。
1999年には、東南アジアの拠点として現地法人 HOSHIZAKI SINGAPORE PTE LTDを設立した。ホシザキの厨房製品は、今や世界60カ国以上の国々で活躍し、高い評価を得ています。

アメリカ発ホシザキ冷蔵庫、
待望の登場!
21世紀がスタートし、ホシザキは世界のホシザキへと飛躍をめざします。2001年に、HOSHIZAKI AMERICA,INCが、米国ジョージア州にグリフィン工場を設立し、世界に羽ばたく新たな拠点となりました。
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中国から欧米へ、
ホシザキ製品は世界を巡る
ホシザキは、経済成長著しい中国に進出を決定。2006年、蘇州市に星崎電機(蘇州)有限公司を設立しました。中国で製氷機や業務用冷蔵庫などの厨房機器生産をスタートし、米国・ヨーロッパを中心に輸出を開始。将来的には、この地を拠点として中国でのシェア獲得をめざします。中国では、北京オリンピックや上海万博を契機に外食産業の伸展も見込まれ、今後大きなマーケットとして期待されています。
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省エネルギーに
貢献、
ホシザキの
ものづくり
2006年、ホシザキは業務用冷蔵庫では初めてとなる「省エネルギーセンター会長賞」(財団法人省エネルギーセンター)を受賞。インバーター制御を導入し、省エネに貢献したことが評価されました。1947年の創業以来、「オリジナル製品を持たない企業に飛躍はない」をモットーに、ものづくりの可能性に挑戦しつづけてきたホシザキ。世界市場で活躍する製氷機をはじめ、多彩な厨房機器の領域で、その独自の技術力と創造力は世界で広く知られています。
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日本ナンバーワンから
世界ナンバーワンへ
ホシザキは、2006年、米国テキサス州の飲料ディスペンサーメーカーであるLANCER CORPORATIONを買収し、より一層の海外強化をめざします。現在、ホシザキ製品は世界60カ国以上で使用されており、全自動製氷機では世界No.1のシェア(25%)(2008年)を占めています。つまり、地球上で使われている製氷機の4台に1台はホシザキ製。いつの時代も、未来を担う新製品の開発を進め、「変化は進歩」を合い言葉に、新しいフィールドと夢の製品を作り続けています。
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創立60周年で誕生した
ペンギンキャラは
「キューブとチップ」に決定!
2ひきの「ゆるキャラ」ペンギンには、社内公募を通じて「キューブとチップ」という名前がつけられました。「ハロハロとペンペン」や、「ピカリとキラリ」などの候補を押しのけて、多数決で選ばれたのです。キューブは「キューブアイス」、チップは「チップアイス」、それぞれ氷の種類にちなんで名づけられたもの。以来キューブとチップはホシザキのマスコットとして広報・販促・展示会…いろいろな場面で、文字通りホシザキの顔として活躍しています。
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株式を公開して、
東証一部・名証一部に上場!
2008年10月、東京証券取引所2階のボードに「祝 市場第一部上場 ホシザキ電機株式会社」の文字がおどりました。社会に広く認められる企業としてホシザキはこの日あらたなスタートを切ることになりました。今後のホシザキの成長のために透明性のある経営を実現し、社会から認められるパブリック・カンパニーとなるよう、ホシザキ・グループ全社員があらためて責任と自覚を持ちながら行動していく、そんな機会にもなったのです。
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医療分野、
花卉分野へ進出!
2013年、病院などで使われる医療用器具の洗浄器「ウォッシャーディスインフェクター」を発売しました。長年磨かれたホシザキの洗浄技術が医療分野へ応用されたのです。また、衛生管理でつちかわれた「電解水」の技術も、「電解水フラワーショーケース」として花卉分野での生花管理に利用されています。
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